イタリア愛が消滅した理由

過去、イタリアテーマ中心のブログやっていたけど閉鎖した。書くことが重荷になっていた。Pinterest始めて、古典的なブログスタイルが古臭く感じられた。自分の著作物で構成する前提を、バカバカしく感じるようになった。で、ブログをPinterest風のテーマに変えてみたりしたけど、読者の反応は悪かったな。

イタリアというテーマにこだわるのも、重荷だった。イタリア以外のことも書いていて、それらの記事もそれなりに評判はよかったけど「少しずつでいいのでまたイタリアのことも書いてくださいね」とメールもらったりするとずしーん、と重く感じた。憂鬱になった。まるでそれが自分の義務のように感じてしまい、義務感を感じると好きなことも嫌いになるもんです。

で、嫌になって閉鎖した。もう書きたくもないネタを義務感で書くのも、こういうコミュニケーションをとるのも、嫌だった。

でもその頃はまだ、ブログは閉鎖したものの「イタリア好きである自分」は変わらなかった。変わったのは、翌年初めてバルセロナを訪れてからだ。

バルセロナには、イタリアにはないものがあった。バルセロナに5泊してイタリアへ移動するときになって、あれだけイタリアが好きだったのに、イタリアに行くよりバルセロナにもう少し残りたいと思う自分がいた。飛行機の窓から真っ青な地中海とカタルーニャの突き抜けるような青空を見ると、ここから離れたくないと思った。

 

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イタリアの空とカタルーニャの空は違う。イタリアには、カタルーニャと同じあの空はない。その時はもう、求めるものはイタリアの空ではなくなっていたのだ。

違和感は、イタリア旅行中も続いた。列車の窓から眺める、美しい緑の、やさしい田園風景。落ち着いた古都の街並み。でも心から楽しめない。今の自分が求めているのはこっちじゃないんだと、何か悟った気分だった。

バルセロナで見かけた女性達の、気負いのないサラッとしたファッションが素敵だと思った。
イタリア女性の「私は女よ!」モード全開のオーラや、イタリア男のキメキメのスタイルを、息苦しく感じるようになった。

ゲイの男の子のカップルが街中で堂々といちゃつく。それが可能であるバルセロナという都市そのものが、クールで素敵だと思った。イタリアで男女のカップルが過度にいちゃつくのは、暑苦しくてうんざりした。

バルセロナでは、カタルーニャ、スパニッシュ、フレンチ、ジャパニーズと様々な地域の料理を取り入れてアレンジする食のセンスが新鮮だった。地元イタリアの料理と中華以外に選択肢がないイタリアの食事情が、色あせて見えた。

あんなに好きだったのに、ここまで愛が冷めるとは、と自分でも驚いた。

村上龍の、エッセイか小説か忘れたが、人は自分に活力を与えてくれる存在を愛するようになるものだ、というフレーズを読んだ。そういう意味でいうと、イタリアはもう自分に活力を与えてくれる存在ではなくなったのである。

とはいえ、バルセロナは好きだけど、かつてのイタリア愛みたいに過度な思い入れは持たない、持ちたくない。そんなものはいつか醒める。「バルセロナのこと書いてください」なんて言われたら、また嫌になる。人間の関心なんて変わり続けるものなんだから、それに従って流れ流れて生きるだけである。