大島弓子 「まだ宵のくち」との再会 – Part 2

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– 「まだ宵のくち」大島弓子 ほうせんかぱん(白泉社文庫)収録 より

 

前回投稿で「まだ宵のくち」について書いたんだけど、個人的な想いを語っているだけなので、もうちょっと端的な話も書いておく。

大島弓子 「まだ宵のくち」との再会

年末に、Amazonで大島漫画をまとめ買いして続けざまに読んだ。ほぼ過去既読の作品だったが、この年になって今更、大島漫画の中心は常に「死」と隣り合わせになっていたのだと気づく。「10月はふたつある」「四月怪談」等は直接的に「あちらの世界」との接点を持って物語が展開するが、それ以外にも直接的に「あちらの世界」との関わりはないものの、根底に「死」または「死と再生」の暗喩が横たわっている作品が多数ある。「まだ宵のくち」はどちらかというと前者の方だ、何しろ死神が登場する。

その前に、「まだ宵のくち」は大島弓子の作品の中ではあまり有名ではないし選書にも入っていないので、ファンでも知らない人が多いのではないだろうか。

現に、小学校から中学にかけて大島漫画が大好きだった私でも、20才くらいの時に偶然街の喫茶店で出会うまで、この作品のことを知らなかったのだ。

「まだ宵のくち」はこの時の一読だけで大好きな大島作品の一つになったのだが、しかしこれ以降再読する機会に恵まれず、20数年が経過する。私の脳内には「紅茶タバコ」のぼんやりとしたディテールと、美しい物語だったなぁ、という記憶だけが刻まれ、死神が登場していたことさえ忘れていた。

先日やっと再会して改めて繰り返し読んでみると、その暗喩の使い方やプロットの巧みさ、何気ないセリフ一つ一つの含蓄の深さ、美しさに目を見張る。「まだ宵のくち」というタイトルの意味も、「あー、こういうことだったのね」とようやく知ることができた。この作品中で興味深い暗喩の一つが、ある書店だ。物語の前半、主人公の苺子は死を願って立ち尽くしていた書店で、美しい死神を呼び寄せる。そして後半、「この世に向かってあるきだした」苺子は同じ書店でその死神そっくりの人物に出会う。ここではその人物の存在は反対に、「生」の象徴として描かれているのだ…と、これはあくまで私個人の勝手な解釈だけれども。

これは大島作品の中で取り分けて傑作の部類に入る作品ではないかもしれない。それでも、他には替えようがない、きらめきと魅力に溢れている。美しい、本当に美しい物語。