夢と暴力が詰まったクラインの壷 – ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ

夢と暴力が詰まったクラインの壷 – ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ
(タイトル長すぎてヘッダーに収まらないのでここにも書いておきますよ…)


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セルジオ・レオーネ監督による超大作ギャング映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(Once Upon  a Time in America)。2/24(日)シアタス調布にて鑑賞。

実は前日から風邪ひきの兆候があり、当日も体調が重かった。この体調で4時間もの映画鑑賞に耐えられるのか?と迷ったけれど、「今日を逃したら一生観れないぞ!」と自ら奮い立たせて行ってきました。(この年になると、この先残された時間にそうそうチャンスが巡ってはこないことが見えてしまうからね)

しかし蓋を開けてみたら、4時間という上映時間の長さを忘れてしまうほど映画の世界に引き込まれ、夢中で追っているうちに風邪なんかどこかに行ってしまった。

すごい。素晴らしい。

鑑賞後3日くらい経過してるけど、まだ頭の中をこの映画のシーンがぐるぐると逡巡している。頭使う映画だった。深すぎて、簡単には言い表せない。ひとつだけ言えるのは、これは凄まじく素晴らしい作品ってことだ。

アホみたいな感想しか言えなくて情けないけど、逆にゴニョゴニョ言いたくない。この映画について語っているブログはたくさんあるので、あえて自分が詳しいことを書く必要もない。だから、以降は、自分の好き勝手な独り言。


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謎に包まれ物議を呼んでいるラストシーン、ロバート・デ・ニーロ演じる、主人公ヌードルスの微笑み。あの微笑みの意味について記者に聞かれた監督のセルジオ・レオーネは、「答えは君が知っているはずだ」としか答えなかったという。レオーネ監督はこの映画を遺作として亡くなっているため、真相は闇の中だ。

ネット上では様々な憶測が飛び交っている。私的には「夢おち」は外れだと思う。レオーネがそんな安易な筋書きのために、あのような脅威的な映画を撮ったとは考えられない。

この世にひとつの答えがあるわけじゃないけれど、自分自信が一番腑に落ちる結論は何だろう?もし自分がヌードルスだったら?と考えたときに思いつくのは、例えばこんなことだ。

愛する仲間を救うためにとった自身の行動が、仲間を死に追いやるはめになった。こんなはずじゃなかったのに、自分一人が残された。そんな時に、人はどんな感情を抱くだろうか?

私には、デ・ニーロのあの笑顔は安らかな笑顔というより、どこか引きつった、何ともいえず不自然な笑顔に見えた。泣き笑いのような、あるいは今にも泣きそうな笑顔。ピエロのような、悲哀がまじった滑稽さ。そんな自分や運命に対する自嘲。

そして35年もの間仲間を裏切ったことへの自責とともに過ごしてきた彼が、裏切られていたのは自分の方だったと知った後は、どうだろう。

映画の中では、この二つの「点」が、クラインの壷のように互いを呑み込み、ループを描いている。こんな凄まじいプロットをよく思いついたものだ。

答えは、これだけではないかもしれない。映画のタイトルにはアメリカという国の、壮大な御伽話という暗喩が込められているとも言える。ただ、ヌードルスが楽しかった過去の日々を思い出して笑ったという説も、感傷的すぎて違うと思ってしまう。レオーネは、感傷のためだけにあれほど「凄まじい笑顔」を撮ったりしないだろうと思うのだ。(諸説に意を唱える意図はなく、自分の頭を整理するために書いています)

ヌードルスは映画全体を通して、心から笑ったり楽しんだりといった表情を見せない。そんな中でただひとつ、安らいだ表情を浮かべたシーンがある。それはあの、引きつった微笑みではなかった。

自らの暴力によって最愛の想い人、デボラとの恋に破れたヌードルスは、やけ酒を飲んでいたバーで娼婦イブと出会う。ヌードルスはイブに対して「デボラと呼んでもいいかい」と、イブにデボラを重ねて一夜をともにする。(イブにデボラを重ね合わせ、決して叶わぬ愛の夢を求める彼の姿もまた、残酷なまでに滑稽で哀しい)しかし酔いつぶれていたヌードルスは、行為に及ばぬまま寝いってしまう。まるで子供のように。

私には、そのときのヌードルスの顔だけが、とても安らかに満ち足りた表情に見えた。そしてそれもまた、ヌードルスの哀しさでもある。暴力によるコントロールに頼らざるを得ない彼が、自ら招いた哀しさなのである。(それはよくよく思い出すと、他の様々なエピソードにも表現されている)

そんな風にしか生きられなかった男と、その男が生きた、夢と暴力が渦巻いていたある時代の、アメリカという国の物語。

これはそういう映画なんじゃないか?…であるならば、デ・ニーロのあのラストの表情はつまり…(と、ここでまたクラインの壷)