「バターの寛容」が象徴する何か – 大島弓子「金髪の草原」

小説でも漫画でも、ある作品をいつ、どんなシチュエーションで読んだのか、その本をどんな書店で購入したか、そんなことも自らの記憶を彩る重要なファクターになるものだ。12月は、普段忘れ去ってしまっている大切なことを思い出すときなんです。それでこの記事を書くんです。

 

大島弓子「金髪の草原」は1983年ぶ〜け1月号にて発表された。それをリアルタイムで読んだのは、幸福な体験だったと今にして思う。あの頃ローティーンだったが、年末年始はまだ特別にマジカルな時間だった。この時期は漫画誌でも特別な作品が掲載されたりする。それだけのことでもとても気持ちが高まって、わくわくしてた。

その頃漫画誌は白泉社の「LaLa」「花とゆめ」を中心に読んでいて、集英社の「ぶ〜け」は普段読まなかった。(集英社の漫画ってどうも相性悪かったんですよ…)しかし大島弓子の新作が掲載されるとあって、どきどき期待に胸膨らませて書店に買いに行った。あの時のときめき、胸の高まりは、じぶんの中で煤けた現実の澱が地層となった今でも、色褪せない記憶である。

さてこの作品中でもっとも素敵なシーンは間違いなく、日暮里氏となりすとその仲間たちの、お昼のお茶とサンドイッチのひとときだ。

“全く同感です。この瞬間!乱された心が沈殿して幸福感と分離するのがはっきりとわかるのです”
“それにこのサンドイッチ!パンの弾力 バターの寛容 レタスの感性”

こんなお茶の時間。夢のティータイム。こんなひとときが永遠に続いたら、人生は、世界はどんなに素晴らしいだろう。

最後は日暮里氏もなりすも、現実に戻ることになるのだが。

 

この作品を初めて読んだローティーンの頃、その核となるところを理解していたとは言えない。それでも、「あの頃の」自分が感じたり受け取ったりしたことは、その時だけの宝物だ。漫画からしばらく離れて、何十年ぶりかに再読したときの、「あぁこの作品ってこういう意味だったんだ」と理解したときも。そしてそれ以来、しばらくして再読するたびに、日暮里氏が現実に戻るあの場面で、涙腺を緩ませずにいられない。

こんな素晴らしい作品を、発表された当時の12月に読めたことは、神様から与えられたギフトのようだと思う。もちろん大島弓子の素晴らしい作品はこれだけではない、彼女が生み出した他の多くの素敵な物語、そして彼女自身が、人類に与えられたギフトだと思う。

子供からローティーンにかけてのある時期、大島弓子の漫画は私にとって「ライナスの毛布」だった。年をとるにつれて「ライナスの毛布」がなくても生きていけるようになり -つまり現実と対峙できるようになり-、大切だった毛布の存在を忘れてしまっていた。

しかし、「パンの弾力 バターの寛容 」に象徴されるもの、それはじぶんの中に生き続けている。形があるものではない、けれどもかけがえのない記憶。

この「金髪の草原」は、この世に送り出された素敵なギフトなのである。私にとっても、他の誰かにとっても。